それでも

曖昧で不確かで、白黒ハッキリつけたい自分にとっては苦手な感覚だけど、グレーの中を生きることは今年もきっとこれからも大切なんだろうなあ。

以前通っていた心療内科の先生が

「解決しようとしなくて良い。答えを出さなくて良い。そのときそのとき感じて考えれば良い」

と言ってくれたことを思い出す。

ネガティブ・ケイパビリティというか不確実性に耐える力が必要だなあ。

簡単には答えが出ないし、結論を出せないけれど、不安も戸惑いも抱えながら、それでも、そのとき考えて、思うことを選んで、ひとつひとつ積み重ねて。

冬は体調も気持ちもしんどくなりやすい。だからあまり冬には判断しないようにしている。今は一旦保留にして、また春の自分に委ねよう。

もう一か月もしたら、梅に雪柳に春の花が咲き始める。きっとすぐだよ。だいじょうぶ。春になったら動き出せるはずだから。あとすこし、もうすこしだけ待っていよう。しんどい冬も閉じているからこそ育まれているものがあると信じて。

共に過ごしてくれたもの

すぐにしんどさや辛さを「解決」してくれるものはないけれど、しんどい時間を「共に過ごしてくれるもの」「ちょっとだけ忘れさせてくれるもの」はあって、そういうものに随分と救われてきた。

病気になって間もない頃は、「これで治るんじゃないか」「今度こそ…!」とたくさんの治療を試し、本を読み、ネットの情報に触れていたけれど、8年経った今は、この病気は「劇的」「即効性」そういう治療はなく、地道に、焦らず、行ったり来たりしながら、なんとなく、たまに、ちょっと、じんわり良くなるものだと分かってきた。

言い換えると「耐える」「やり過ごす」時間が多い。すぐに効くものはないから、つらい瞬間がたくさんあるし、しんどさと共にいないといけない。どうしてもしんどさ、苦しさに意識が集中してしまうから、そこから意識を逸らすために、たくさんのものに助けられてきた。いろいろ紹介したいものはあるけれど、今日は音楽と映画のことを書こうと思う。

音楽。
言葉のない、ピアノの音だけで紡がれている音楽はキュッときつくなった思考や視点をゆるめてくれて、微睡むように、合いすぎたピントを溶かしてくれるのが心地良い。なによりも純粋に彼らの音楽がとてもすきで、心が癒される。

映画。
2年前に観た映画「夜明けのすべて」がとても好きだった。

元々フライヤーの写真の美しさに惹かれ、全編フィルムで撮影されたと知り、言葉をとても丁寧に話され、お声がとても魅力的なおふたりが主演で、パニック障害やPMSが物語の中心にあって…と観る理由しかなくて、公開してすぐに劇場に足を運んだ。冬はすごく調子が悪いのにそれでも観たい、行きたい、と突き動かされる心があった。そのときに書いた感想。

映画「夜明けのすべて」

エンドロールの映像、在り方が今まで観た作品の中で一番好きだった。

ポスター写真を見た時から、絶対に観たい、きっと私が好きな世界観だと思って、ずっとずっと楽しみにしていた作品。主演のおふたりもとても好きで。

いざ映画が始まると、大きく期待して高まっていた何かが、平熱に戻ってゆくような、静かに静かに、現実を、日々を生きる感覚に落ち着いていくようだった。

観終わった後、なんとも言えない心になった。なんだろう…言葉は出てこないけど、言葉にできない確かな感覚は大きく胸の中にあって。本当に大切なことは、言葉にできないんだなと思った。

痛みも苦しみも自分だけのものだから、そこに対する救いはやっぱりない。でも、その絶望にのみ込まれないように、それだけが全てではないと、そうじゃない時間もあると、そよ風を感じさせてくれる人や場所、時間が増えれば増えるほど、辛さは何も変わらなくても、日々に対する心持ちは少しずつ少しずつ柔らかになれると…。(自分の病気と7年付き合って真っ暗なトンネルも数年経てそう思う)

観て良かった。そして、できれば時間を置いてもう一度観たい。今度は違う劇場で。

レトロな小さな劇場で、お年を召した方が多かったのもなんだか嬉しくて。時折り聞こえてくる笑い声に癒されながら、じっくり鑑賞。上映後、人が少なくなった劇場で「良い映画やったなあ…」と呟かれた老紳士の声の温もりを忘れない。

電話

最近、何人かの友人と電話をした。どれもとても豊かな時間だった。

電話っていいなあと思う。
今は体調が冬なので一歩も外に出たくないし、着替えて、メイクして…なんてエネルギーはほとほとない。でも、家にいてパジャマのままですっぴんでも深い対話はできる。文面だと温度感が分からなくて不安になるし、対面だと表情が見えるから相手の反応を見てしんどい気持ちを誤魔化したり、平気なフリをしてしまう。電話は表情が見えないけど、声でいろんなものが伝わってくるし、「聴く」「話す」に全集中するから気持ちをこぼしやすいのかもしれない。

わたしの生活の専攻科目は病気なので、考えていることも悩んでいることも、時間を割いていることも病気になる。○○に行った、〇〇をした、〇〇と会った、そういうことなら話しやすいけれど、身体のつらい感覚やこういう思考が苦しい、日常生活の大変さ、キツさ、のような話はしづらい。こんなの聞いてもしんどいかな…、きっと伝わらないだろうなあ…、こういう風に受け取られて誤解されたらいやだなあ…、とか色々考えて、聴くことに徹して、自分の話はあまりしないことが多かった。

でも、最近やっぱり伝えなきゃ分からないよなあと思い、「分かってほしい」ではなく「知ってもらえたらうれしいな」「こういう風に生きている人もいるんだ~」というサンプル紹介、事例紹介のようなテンション感で自分がどういう辛さを抱えているのか、生活の具合や考えていることなどを友達にフラットに伝えられるようになってきた。

ん~どうなんだろう、きっと理解するのはむずかしいし、どれくらい伝わっているのかな…、なんて不安や迷いを抱えながら、理解されなくても、ここにいる。そうやって生きているという存在証明のような、ないことにはしたくない。きっと伝えること、この瞬間話すことに意味があるはず。という想いで、心にあることを声に出して言葉をつなぐ。

「話してくれてありがとう」「話してくれてうれしかった」「もっとあなたのことを知りたい」

迷いながら悩みながら話したあとに、そんな言葉を伝えてくれたら泣いてしまう。きっとそんな言葉をかけてくれる人たちだから、話したいと思えるんだろうなあ。過去に傷ついたことは確かにあるけれど、今わたしの周りにいてくれる人たちはそうじゃない。もっと人のやさしさやあたたかさを信じたいな。

話を聴くのもたのしいけれど、胸の内を話してそれを受け止めてもらえることの癒しは深い。お互いにとって安心や喜び、癒しになるような対話をしたい。話す喜びを教えてくれたひとりひとりに心から感謝。

伝える

自分の気持ちや感覚を伝えてもいいんだな、伝えることは大切なんだな、と思えるようになって、人と話す喜びを感じられるようになってきた。

幼い頃から「考えすぎ」「真面目すぎ」「気にしすぎ」と言われることが多く、その度に自分の感覚や気持ちを否定されている気がして、どんどん自分の気持ちを言えなくなった。考えていることも感じていることも山ほどあるけれど、伝えてもきっとまた一蹴されるんだろうな、と思うと、「言わない」を選ぶことが増えた。

感じることは自由なはずなのに、「どう感じなきゃいけないんだろう」「どう感じるのが正しいんだろう」と感じ方の“正解”を探す癖がついた。悲しい。感じ方までコントロールしようとしたら自分がいなくなってしまう。自分を生きている心地を失う。

8年前に人生で初めて心療内科を訪れたとき、「つらい」が「辛い」としてちゃんと伝わることにとても驚いたと同時に救われた。体調を崩してから出会った心身の専門家たちは、深く話を聴いてくれる人が多かった。表面的なごまかしの笑顔ではなく、奥側にある涙を見てくれた。そういう人たちと関わる中で、自分の感覚を否定されない経験、気持ちを丁寧に受け止めてもらう経験を重ねて、どんな感情もあって良いし、感じていいんだな、と思えるようになった。

信頼していても、その時々でコミュニケーションの齟齬は起こるし、毎度自分の気持ちを伝えることは勇気が要る。わたしは、感情が遅延型なので、話していてうっ…と傷つくことがあっても、その場では伝えることができない。帰り道や家に帰ってから、いろんな感情がせり上がってきて、そのことばかりずっと考えている。伝えないほうが楽だし、波風立てずに済むし、言わないでおこうかな…と思うことも多いけど、やっぱりちゃんと自分の気持ちを伝えたい、と思う相手には話せるようになってきた。

最近もそのようなことがあって、勇気を出して自分の気持ちを伝えたら、その方は真摯に耳を傾け、わたしの感覚や思考回路を理解しようと寄り添ってくれた。またその方の伝えたかった意図、その言葉の背景にある想いや意味を伝えてくれて、感じ方の交換このような、とても学びの深い対話の時間になった。

人と話す上で、意図と意味の擦り合わせって本当に大事だよなあ。その擦り合わせには時間もエネルギーも必要だから、それだけの労力をかけても話したいと思える人がいることに心から感謝だし、理解しようと分かろうと心を砕いてくれる姿に、ほんとうにありがとう、と思う。わたしひとりのために、そんなに向き合ってくれるの…、なんでそんな風に言ってくれるの…、と泣きそうになる。

わたしは人に心を開くのに年単位で時間がかかる。自分の気持ちをハードルなく素直に伝えられる人たちは3~6年ほどかけて信頼を築いてきた。ずっと支え続けてきてくれて本当にありがとうだし、こんなに素敵な人たちに出会えたことに感謝の気持ちでいっぱい。人に恵まれているなあ、とつくづく思う。

体調が悪くなって、心が闇に包まれると、感謝する心が消えてしまうけど、この数年間、今支えてくれている人たちに出会えたことだけは、どんな時でも心からしみじみと感謝できた。

その時々の自分の状態によって感じ方も受け取り方も変わって、悩むことも多いけれど、知りたいと、話してくれてうれしい、とそんなふうに受け止めてくれる人々の温もりを信じて、これからも伝えることを諦めないでいたい。

ぼちぼちと

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新しい年が始まって一週間とすこし。平常時の空気感がゆるやかに戻ってきてほっとしている。

子どもの頃はクリスマスも年末もお正月も大好きだったけど、ここ数年はぎゅっと胸が固くなる感覚がある。身体が記憶した過去の苦しい感覚が蘇るのもあるし、お正月は何かを始めたり、計画を立てたり、これから新たに頑張っていこう! という空気感が漂っていて負担に感じてしまうから。

自分のバイオリズムと世間の流れが乖離しているとき、つらくなる。冬は調子が悪く、今まで40%の充電状態で生きていたのが20%の充電状態で生きることになり、生命力が弱まる。この冬はガクンと落ちることはなかったけれど、11月末からじわじわと削られ、今はすっかり冬仕様の身体になっている。曇天がずっと続くというか、すっきりしない心身模様。

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それでも今年はここでブログを書いている。書けている。ほんとうにありがとう。目標とか計画とか大きなことは浮かばないけれど、やってみようかな、これならできるかな…、続けられるかな、負担がないかな…、そういう小さなことを、そのときそのとき考えて、ちょっとずつ積み重ねていきたい。

地道にぽつりぽつり。それでいいんだとやっと思えるようになった。

心許なくても

この3か月ほど、心身ともに頑張らなきゃ! というモードになっていて、頑張るべきイベントが終わった後も緊張がなかなか抜けない日々を過ごしている。

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「穏やか」「安心」そういう戻りたい真ん中へ中々戻れない。帰り方が分からなくなってしまった。でも、8年間自分と向き合ってきた経験が助けてくれている。思えなくても、感じられなくても、無理するのはちがう、ここでアクセルを踏むのはちがうぞ、と教えてくれる。思えなくても、休まらなくても、とりあえずこれはやめとこう、とりあえずゆるっとしよう、そう意識はしている。

思えば病気になってからの8年間、思うように生きられたときはなかった。いつも不安定で、朝起きてみないと分からない体調。それでも、この不安定に波打つ身体と生きることは少しずつ上手になってきた。つらさは消えない。でも、つらさと共に生きる術は身についてきた。

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経験ってすごいなあと思う。痛い思いをした分、強くなっている、たしかに。まだまだ心折れそうになる瞬間は多々あるし、今朝もイライラギスギス、ぐちゃぐちゃ。ホルモンバランスのせいだと分かっていても、つらいものはつらい。そう。分かっていても、受け止めていても、つらいものはつらい。きついものはきつい。何年経ってもそれは変わらない。でも、すこしずつ、そうじゃないときもある、今きついだけだよ、と思える心の隙間が生まれてきた。

きっと良くなっているし、積み重ねてきた日々は力になっている。しんどい時って、自分を肯定できる気持ちがすごく減るから、せめてこうして言葉を目に見えるかたちで記すときは、褒めてあげたい。よくやってるよ。よくがんばってる。今年も1年よく生きたね。ほんとうにお疲れさま。心では思えないからこそ、文章ではそう書いておきたい。

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いろんな気持ちと身体を抱えながら、一日一日を生きた。2025年の最後まで辿り着いた。それだけで花束を贈りたいね。

秋のおわりに

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今年の秋は展示の準備で忙しく、紅葉の写真を一枚も撮れていなかった。何かの移動中に車窓から秋を感じる瞬間はたくさんあって、それで十分だなあと思っていた。今年は写真に残せなくてもいいやって。

そんな風に諦めていた頃、友人が真っ赤なもみじの写真をLINEで送ってくれて、「わたしも撮りたいかも」とふと思い、もう散ってしまっているかもしれなあ、それでもいいか~とゆるい気持ちで近所の公園へ散歩に出かけた。

最近、フィルムで撮ることが気持ち的に分からなくなっていて、デジタルカメラにオールドレンズ(フィルムカメラのレンズ)を装着して持って行った。

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夕方の光とオールドレンズだからこそ見られた景色がほんとうにうつくしくて、幻想的で、ずっとこの光景の中を生きていたい、と思った。この光景を見ている間中、目も心も癒され続けていた。夢と現実の狭間のような、この瞬間がこの場所が心から大好きだなあ、私はこの時間に、この景色に救われてきたんだなあ、そんな風にしみじみ感じながら、同じだと分かっていっても、シャッターを切る手が止まらなかった。

うつくしい景色は何度撮っても、何度見ても、飽きることがなく、撮っても撮っても取りこぼしている気がして、十分に見たつもりでも、まだ味わい切れていないような、受け取り切れていないような気がして、その場をなかなか離れられない。

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散りゆくわずかな秋を掬った日。わずかなんて言いながら十二分にうつくしくて、心のあれこれを洗い流し、きれいな感情で満たしてもらったひととき。今年もうつくしくいてくれて、ありがとう。私の心を癒してくれて、ありがとう。